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「遥か」 [本・映画・アニメ・詩歌]

遥か.jpg

この時期は卒業・入学シーズンでもあり、社会人になる方も既に社会人の方も、新たな環境・新たな生活を始める方々もいらっしゃるのではないでしょうか。そして、そんな旅立つ人と同じくらい、送り出す人がいると思います。そんな別れと旅立ちを謳った曲は、古今東西たくさん存在します。今回はその中から一曲、GReeeeNの「遥か」を紹介させていただきます。

窓から流れる景色変わらない この街旅立つ
春風舞い散る桜 憧ればかり強くなってく
「どれだけ寂しくても 自分で決めた道信じて・・・」
手紙の最後の行が あいつらしくて笑える
「誰かに嘘をつくような人になってくれるな」父の願いと
「傷ついたって笑い飛ばして 傷つけるより全然いいね」母の愛

この曲の歌詞をずっと読み続けると、旅立つ子と両親の気持ちを謳ったことが分かりますが、子と親の気持や視点が交錯して出てきますから、そこがちょっと分かりにくい詩でもあります。「自分で決めた道信じて」というのは、旅立つこの覚悟であり、「あいつらしくて笑える」とは親の子を見る眼でしょう。

あの空 流れる雲 思い出す あの頃の僕は
人の痛みに気づかず 情けない弱さを隠していた
気づけば いつも誰かに支えられ ここまで歩いた
だから今度は自分が誰かを支えられるように
「真っ直ぐにやれ よそ見はするな 下手くそでいい」父の笑顔と
「信じることは簡単なこと 疑うよりも気持ちがいいね」母の涙

ここでも、旅立つ子の気持ちと決意、親がその子に向けて掛けたい言葉が交錯して続いています。ただこの詩の主人公は旅立つ子であり、この親の言葉は、実はその子の記憶のなかに残っているものなのだと思われます。

さようなら また会える日まで 不安と期待を背負って
必ず夢をかなえて 笑顔で帰るために
本当の強さ 本当の自由 本当の愛と本当の優しさ
分からないまま進めないから 自分探すと心に決めた
春風 想い届けて 涙を優しく包んで
必ず夢をかなえて 笑顔で帰るために

今まで親の傘の下ですくすくと育った子が、自らの夢を持ち、それを目指して旅立つ情景が浮かびます。しかしそれは、親に対する嫌疑の別離ではなく、「笑顔で帰るため」の別れであることが窺い知れます。その根底には、親への感謝の気持ちが込められています。

さようなら 叱られることも少なくなっていくけれど
いつでも傍にいるから 笑顔で帰るから
どれだけ寂しくても 僕らは歩き続ける

必ず帰るから 想いが風に舞う
あなたの誇りになる
いざ行こう

「いつでも傍にいるから」とは、物理的な距離を差しているのではないでしょう。親と子、その絆が失われてはいない、これから先も失われないことを意味していると思います。それだからこそ「必ず帰るから」と続くのです。夢と決意を持って親元を旅立つ子が帰ることを謳うのは、矛盾のように思えるかもしれませんが、「あなたの誇りになる」と言うように、たとえ離れて暮らしても、互いに思いやる気持ちを持ち続けることを謳っているのです。

さて、この曲の題名は「遥か」です。何が遥かなのでしょう。「遥か」とは、距離や時間が隔たっている状態を表すと同時に、私には仰ぎ見るような肯定的な意味合いも付加されているように思えます。この詩での「遥か」とは、今の自分と目指す夢との間に有る差異でしょう。まだ弱いと自覚するまで育った子、それでも抱く夢に向かって親元から旅立つ決意した子、その子の目指す先がまだずっと先に有ること、その情景を「遥か」と言い表しているのでしょう。
そしてそれと同時に、子が今まで育ててくれた親を思う気持ち、旅立つ子を見送る親の気持ち、その双方の思いやる気持ちは有っても、同じではない。その差異も「遥か」と言い表しているように思えます。そう考えていくと、この詩は単なる卒業ソングではない。旅立つ人を主にしながらも、送り出す側の親をも含めた、もっと大きな家族の愛を謳った曲なのです。
子供は親のロボットでも、コピーでもない、一人の人間なのです。夢を追って親元を飛び出す決意をした子供は、もう大人と見てよいでしょう。育ててもらった大人、育てた大人、その両者が互いに見つめ合う眼や想いは違って当たり前なのです。それでも互いに通じ合い、結び合う気持ちを持ち続ける。歳も、場所も、歩く方向も違えども、同じじゃないけど、感謝と期待が交差した絆を持ち続け、歩き続けます。フッとお互いを見た時に、その姿に「遥か」を感じるやもしれません。
旅人は、どんなに辛く苦しくても、いつか故郷に帰る日を想い、たとえ今日は倒れてもまた歩き出す、といいます。その故郷は、遥か先かもしれません。大切に育てた我が子が自らの元を飛び出したとて、その後ろ姿を見つめる眼は失いません。子供の背中が、たとえ遥か先思えても。



GReeeeN 「遥か」


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「おまえが大きくなった時」 [本・映画・アニメ・詩歌]

今年を振り返る時期となりました。
良い事も悪い事も、楽しいことも悲しいことも、いろいろ有った一年でした。そしてこのブログをご覧の皆様方も、同様だったのではないでしょうか。でも考えてみればそれが当然で、普通で、毎年ちょっとずつ違えども、それらの繰り返しで歳を重ねて行くものだと思います。大切なのは、今こうして振り返って見れること、明日を考えられること、ではないでしょうか。
さて我が家の今年一番の思い出は、7月に行った家族旅行でしょう(このブログでも書きました)。私たち親が子供を連れて行ったこれまでの旅行と正反対に、子供たちが発案して、計画し、費用を負担し、私たち親を招待してくれたのです。これは我が家始まって以来の初めてのことです。ビックリすると同時に、嬉しくもあり、そして子供たちの確かな成長を実感できた旅行でした。

お前が大きくなった時.jpg

我が家は五人家族です。三人の子供に恵まれました。そしてその末っ子が今年、満二十歳になりました。もちろんまだ大学生ですから親の援助は必要なのですが、それでも我が子三人とも、無事に、五体満足で、成人させることができました。親として、これほど嬉しいことはありません。運動会の場所取りに行ったり、習い事の送り迎えに行ったり、クリスマスのケーキを全員で食べたり、そんな想い出が走馬灯のように脳裏を巡ります。大して立派な親ではなかったですが、子供たちがそれを補ってくれた我が家でした。この五人でしか作れない我が家でした。今は少し肩の力が抜けて、その分だけ嬉しくもあり、感謝する気持ちが湧いてきます。

今年最後にご紹介するのは、「かぐや姫」の「お前が大きくなった時」です(1978年 作詞・作曲 南こうせつ)。


おまえが大きくなった時 あの青い空に
白い紙飛行機が 夢を運ぶだろうか
おまえが大きくなった時 あの枯れた大地に
咲いた名もない花が 命を語るだろうか
ごらん あの街を 灯りが揺れてる
おまえの温かいこの手を握りしめれば
ああ聞こえる ふるさとのうた

この詩は、「お前が大きくなった時・・・だろうか」というフレーズで構成されています。それはつまり、親がまだ小さい自分の子に向けて、こうなって欲しい、という希望を謳った詩であることは明白です。
灯りが揺れている街を見てみなさい、と綴られています。灯りは団らんを楽しむ家族の住む家の灯りでしょうか。それとも、夜遅くまで頑張って働いているビル窓の灯でしょうか。いづれ大きくなれば、そんな灯りの下で生きて行かなければならない事を示すと同時に、その灯りが少しでも暖かであることを願っているように聞こえます。

おまえが大きくなった時 このビルの谷間に
やさしい唄が 流れているだろうか
おまえが大きくなった時 この灰色の窓辺に
沈む夕陽が やすらぎをくれるだろうか
ごらん あの街を 灯りが揺れてる
おまえの温かいこの手を握りしめれば
ああ聞こえる ふるさとのうた

「柔らかな皮膚しかない訳は、人が人の痛みを聞くためだ」そんなフレーズの曲があります。人が人の手を握る、それは手のひらを合わせることです。たとえ固く、皺だらけの手であっても、手のひらは柔らかです。それを合わせることは、何の媒介も無く、人と人が触れ合うことです。それが親子ならば、より一層通じ合うものが流れることでしょう。

おまえが大きくなった時 この小さな胸に
確かな喜びが 育って行くのだろうか
おまえが大きくなった時 この手のひらに
愛する心が 通い合うだろうか

「ふるさとのうた」とあります。ここで言う「ふるさと」とは何でしょう。今は離れてしまった生まれた場所のことでしょうか。親がまだ小さい我が子に向けて告げるには、それではちょっと不自然に感じます。私はここで言う「ふるさと」とは、「過去」の代名詞だと思うのです。まだ小さかった自分が、両親に言われた言葉、共に過ごした家庭での出来事、そうした今の自分を作ってくれた道程である「過去」が有り、子を持つ親となった現在、その子の手を握って思い出すのは、そうした自分の「過去」=「ふるさと」なのではないか、と。そう考えれば「ふるさとのうた」とは、親が子に向けて、こうなって欲しい、という希望を謳った、この詩そのものではないか、この詩こそが「ふるさとのうた」なのではないか、と思うのです。
40年前に造られた詩です。その時小さかった子供は大人になり、まだ小さい我が子の手を握っているのかもしれません。親から子へ、子からまたその子へ、語る言葉は違っても、手のひらから伝わる想いは同じであり、この「ふるさとのうた」もまた同じであろうと、ご紹介させていただきました。
子供にとって親は、死ぬまで親です。しかし、過去に何度か書いたことがありますが、親が親として子供を育む時間は思ったよりも短いのです。子供の成長が留まる事はありません。子供が成人して、社会という大海に漕ぎ出せば、親としての務めもほとんど終わったことでしょう。しかし、そんな子供が疲れ、悩み、苦しい時に、フッと振り返れる場所、そんな「ふるさと」を残しておいてあげるのも、親の務めなのかもしれない、今はそう思っています。



かぐや姫 「お前が大きくなった時」


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「荒野の七人」 [本・映画・アニメ・詩歌]

前回は「マグニフィセント・セブン」という映画を紹介しましたが、同じ題名を使っているのにあまりに落胆したので、正真正銘の「マグニフィセント・セブン」を買って見てみました(もちろん、ブルーレイです)。

荒野の七人.jpg

アメリカ西部開拓史の時代。メキシコ国境に近い辺境の街の道端で、男たちが言い争っていた。
「渡した金では足らないのか?」
「金じゃあないんだ、とにかく葬式は取り止めだ」
「待てよ、俺はケチな行商人だが、目の前に死人が転がっていて放っておけないだけなんだ」
「とにかくダメなんだ、この街ではそれができないんだよ。金は返す」
「この街じゃ? どうして?」
「20ドル貰えれば誰でも埋めてやるさ。でもダメなんだ。墓場に相応しくない死人だって」
「だってあそこに埋められているのはみんな、人殺しや盗人や無頼漢の類じゃないか」
「それでも、白人なんだよ。あの爺さんはインディアンなんだ」
「こりゃ驚いたね。仏になって墓場に入るのに差別されるのか。何時からだい?」
「この街が出来てからずっとさ。馬車の御者も怖がって逃げちまった。だから金は返すよ」
『待て! 乗り手ならここに居るゾ』
遠巻きに見ていた男達の中から黒シャツの男が歩み出し、葬儀馬車の手綱を握った。それを見たもう一人の男が、「ちょっとそれを貸してくれないか」とライフルを手にその横に座る。
「待ってくれ、この馬車は特別製で高いんだ。穴だらけにされちゃあ困る」
「だったら、俺たちが修理代を出してやるよ」と見守っていた男達が金を出し合い、葬儀屋に押し付けた。
葬儀馬車は静かにゆっくりと中心通りを進んだ。緊張感に包まれる街。その様子を見ようと、多くの群集が距離を置いてその後を追う。途中、「お前達!とんでもない眼にあうゾ!」と罵声が飛ぶが、黒シャツの男は凛として動じない。ついに建物の二階から発砲。しかし瞬時にライフルが始末する。そうして墓場までたどり着いた馬車の前に、銃を手にした男たちが立ちふさがり、ここから引き返せと脅す。その男たちが自らの銃に手を掛けようとした刹那、黒シャツの男の早打ちがその男たちの腕を打ち抜く。その威圧に恐れをなしたか、黙って男たちが道を開ける。無事に埋葬を終えた葬儀馬車が、今度は颯爽と駆け足で戻るのを見た群衆から歓声が上がり、葬儀業者は「オレの奢りだ!みんな飲んでくれ!」と叫ぶ。馬車を降りた二人は、お互いの名前を言い合って(そこでこの二人が初対面なのが分かる)別れて行く。

この映画の冒頭に有るシーンですが、『漢』じゃないですか! 痛快じゃないですか! この先を期待させるじゃないですか!
黒シャツの男はズボンも帽子も黒で、常に冷静な素振りながら、幾多の血なまぐさい修羅場を潜り抜けてきた流れ者のガンマンにしては、凛とした正義感や価値観・信念を感じさせ、後に仲間のまとめ役になるクリス。演じるのは、黒澤明監督の『七人の侍』(1954年)に感動し、リメイク権を入手した若きユル・ブリンナー。そして葬儀の件で知り合い、どこか軽妙洒脱なところがあるヴィンはスティーブ・マックイーン。他にも当時はそれほど著名でもなかった役者たちが、個性豊かなガンマンを演じます。本当は、この七人の個性や過去、なぜ参加するのか等にもう少し時間を割いてほしかったのですが、128分の収録時間に収めるのには難しかったのでしょうね。その点、黒澤明監督の『七人の侍』は、映画としては207分の長編で、途中5分間のインターミッション(休憩)を挟みますから、より緻密で重厚な感じがします。
話の内容は、1961年日本公開ですから、きっとコレを見られた方が多いことだろうと思い、割愛させていただきますが、自動小銃やマシンガンの無い時代です。一発撃つのに一回づつ引き金を引かねばならぬリボルバーやライフルで敵を倒すのですから、現在のバイオレンスアクションのような派手さはないかもしれません。かといって、話のテンポの遅さや戦闘の退屈さは無く、最後まで一気に魅了されます。もう半世紀以上前の映画ですが、この有名なテーマソングといい、話の筋といい、役者の配置といい、西部劇と言われる映画を代表する名作だと思います。もちろん、私の大好きな映画の一つです。


The Magnificent Seven


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シン・続編・リメイク [本・映画・アニメ・詩歌]

私は、いわゆる「映画通」ではありません。毎週のように映画を見るわけでもありませんし、映画館に行くなんて、年に一度有るか無いかですし、レンタルDVDやレンタルブルーレイで十分、それも「新作」じゃなくて「準新作」や「旧作」になってからで十分、と思っている人ですから。そんな私が映画の事をどうこう書く資格が無いのは承知の上で、「まあ自分のブログだから」という前提で、最近になってレンタルビデオ店で借りた作品のことを書きますから、気軽に読み飛ばしてください。

シン・ゴジラ.jpg

[シン・ゴジラ]
「エヴァンゲリオン」の庵野秀明と「進撃の巨人」の樋口真嗣が総監督と監督を務め、日本製ゴジラとしては初めてフルCGを使った、とのことです。「シン」とは「新」なのかどうか分かりませんが、次回作の劇場版エヴァンゲリオンにもこの「シン」が使われるようですから、庵野秀明作品らしさは感じられますね(BGMなんかにも)。また、従来の着ぐるみゴジラ作品に比べれば、巨大生物が東京に町を破壊するという設定は同じにせよ、勿体付けた登場の仕方はしないし、これを「有事」として対処する政府の方々の奮闘が主に描かれていて、ゴジラが主役ではないと思います。有事における政府の対応や自衛隊の立場、アメリカの圧力が話の中心です。その点では確かに「シン」は感じられます。まあ、娯楽映画として頭を使わず、予備知識が無くても、すんなり見れる映画だと思いました。けど、石原さとみ嬢が英語を話す度に「駅前留学」を連想してしまうのは、私だけかな~

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[デスノート Light up the NEW world]
藤原竜也・松山ケンイチ主演で2006年に公開された「デスノート 前後編」の続編らしいです。はっきり言って、この前作を見たことのある方、ましてや原作であるコミックを読んだことのある方は見ない方が良いです。私、途中で見るのを止めてしまいました。以上!

マグニフィセント7.jpg

[マグニフィセント・セブン]
「magnificent」とは、「偉大な」とか「崇高な」という意味らしいです。そしてこの映画は、黒澤明監督の傑作「七人の侍」、それを西部劇化した「荒野の七人」をリメイクしたとのこと。そう言えば、「荒野の七人」も映画の原題は「The Magnificent Seven」でした。この「七人の侍」「荒野の七人」を見たことのある方にはお勧めしません。この映画は(いろいろ突っ込み所があるのですが)、なぜ参加したか描写の甘い七人のガンマンが悪党をバタバタ倒していく映画で、ただそれだけ。主役のサム(デンゼル・ワシントン)がこの仕事を受けたのも、物語の最後に私怨だったことが明らかになります。はっきり言って、どこが「偉大」なのか「崇高」なのか。黒澤明監督やジョン・スタージェス監督が伝えたかったものが見当たりません。志村喬が扮する勘兵衛が最後につぶやいた「今度もまた負け戦だったな」、ユル・ブリンナー扮するクリスの最後のセリフ「勝ったのは俺たちではない。農民たちだ」、これこそがこの物語の本質であり、そこに至る過程を描いてこその「マグニフィセント」だと、私は思うのですがネ。


まあ、続編やリメイクというのは難しい、ということで。

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