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罰走 [巷の雑感・時の想い]

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某サッカー場で、中学生のチームの対戦を観戦していました。幸い天然芝のグランドでしたが、ギラギラと照りつける太陽の下での試合でした。後半開始直後から、指導者らしき人から罵声に近い指示の声が飛びます、「お前ら、今走るか、後で走るか、どっちかだゾ!」。同様の指示の声が、それから10分後にも響きます、今度は「分かっていうのか!」という言葉が付け加えられました。けれど健闘むなしく、そのチームは敗戦となってしまいました。気になった私は、試合後のそのチームを見ていましたが、ベンチを引き払った直後に一か所に集められ、「お前ら、しかたないよな。全員でこの周り10周走ってこい!」との言葉を投げかけられ、無言で選手たちは走り出しました。その試合に出なかった選手は、まだスタスタと走れましたが、試合に出ていた選手の足取り重く、彼らの表情は無に近かったですが、私には「しかたない」という感情が読み取れました。
サッカーは、105×68mのグランド内で1個のボールを巡って走り回るスポーツです。走れなければサッカーはできませんし、まして試合にもなりません。サッカーに限らずおおよそスポーツというのは、「走る」ことは基本中の基本。野球・ラグビーなどはもちろん、それよりもずっと狭いコートで試合をするバレーボールやバスケットボールなども当然です。あまり走らないと思われる柔道や剣道の部員たちも、練習ではしっかり走っているのを見ました。成長過程の子供や若人にとって、心肺機能を発達させ、持久力や忍耐力を養う最も基本的で、しかも必須なのが「走る」ということでしょう。いや、子供や若人だけではありません。中年・年配層の方々が、街中や公園をジョギングしている姿をよく見かけます。人間にとって健康を維持するための基本動作は、「走る」ということなのだと思います。そう考えれば、中学生のサッカー選手が、指導者に「走る」ことを指示されても何ら不思議でもなく、ごく当たり前のことと考えられます。しかし私は、この光景に何か違和感を感じてしまったのも事実です。
なぜ私は、違和感を覚えたのでしょう。それは多分、罰として走らせる、罰として走らされる、その点だと思いました。試合に負けた罰、それをこの指導者は試合中から公言し、負けた選手たちは罰として走らされた、この点にどうも違和感の根があるようです。試合とは、公平・一定のルールの下で相手選手・相手チームに勝とうとする行為であり、その結果、必ず勝者と敗者が生まれます。敗れてしまった敗者は、悪者なのでしょうか。何か罪を犯したのでしょうか。罰を受けなければならなかったのでしょうか。これがもし、この試合翌日の通常練習の際、「昨日の試合でお前たちは負けた。試合中も言ったが、同じように暑い条件の下で相手チームに比べて走れてなかったことが原因の一つだ。従ってこれから一週間、走ることに重点を置いた練習をする」と言われて走らされたとしたら、きっと私が感じた違和感は無かったことでしょう。
もちろん私は、その指導者に付き従い、100%その言動を注視していた訳でもなく、そのチームのこれまで練習内容や指導方法、その後の状態を知っている訳でもない部外者なので、本来とやかく口を出す立場にいないことは承知しています。また私は指導者でもないので、そうした「罰として走らせる」行為が生むプラス効果が有るのかどうかも分かりません。ただ私は、試合に負けて悔しいのは選手も指導者も同じ、なのに選手を罪人にして罰を与えるのは間違っていると思います。と同時に、たとえ「罰」とはっきり言わないまでも、指導者との信頼関係、理解・納得した上での厳しい練習でなければ、それは練習ではなく「罰」になってしまうこともあるかな、と思った次第です。
サッカーに限らずスポーツ全般にわたって、体罰が問題視されています。その是非を巡る議論もあります。身体的苦痛を加える体罰は、一様に排除する方向にあるようです。では、直接的な身体的苦痛でなければ、罰は許されるのでしょうか。スポーツにおいて、スポーツマンシップに反した行為、倫理的にも道徳的にも教育上でも、問題となるであろう行為に対しては、当然罰を与えるべきでしょう。そうでなければスポーツは成り立たないし、教育の一環としてスポーツを取り入れる意味も無い。なによりそれは、ルールを逸脱した罪だからです。しかし、未熟なこと、力量が劣ることは罪ではない。それに対して、罰を与えてはいけない、罰と感じるような練習を強いてはいけない、と私は思います。それでは、「いじめ」と大差ないではないか、と思うからです。
再度言います。スポーツ全般において、走ることは基本中の基本、必ず取り入れるべき練習です。けれどそれを「罰走」にしてはいけない。なぜならそれは、選手を罪人にしてしまうことになるからです。本来、未成人は未熟です。未熟なのが当たり前で、それだから教育の必要性が有るのであって、未熟なことが罪ではないはずです。だから教育には、指導には、「罰」は無いはずです。もしそれが必要な状況が生まれたとしたなら(昨今では有り得ることではありますが)、悲しいことですね。

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