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私の一番長かった夜 [巷の雑感・時の想い]

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1985年8月12日18時56分、その時私は、当時の空港内唯一のホテルである、羽田東急ホテルのフロントカウンター内に居ました。
あの日は月曜日でしたが、夏休み・お盆休み直前という事で、客室は予約で9割ほど埋まっていました。17時の勤務開始からフロントカウンターでチェックイン業務に励んでいましたが、こうした日は宿泊客の入りはそれほど早くなく、その時間は大して込み合ってはいなかったと記憶しています。その時、その日のチーフが非常な表情の支配人に呼ばれ、奥の事務所に消えました。隣の先輩と「何かマズイことでもあったかな」という無言の眼のやり取りを交わしましたが、私は目の前の接客を優先していました。数分後、戻ってきたチーフは硬い表情で、空いていた僅かな部屋を全てブロックし、オペレーターに当日および翌日の宿泊予約を全て断るように指示しました。「何かありましたか?」という私の問いかけにチーフは、「日本航空の飛行機がレーダーから消えた、ということだ」と短く答えました。私たちに知らされたのは、ただそれだけです。瞬時には事態を把握できなかった私ですが、周りの雰囲気はそれから劇的に変化していきました。
それから、フロントマンとしての私の、長い夜が始まりました。客室はもちろん、宴会場も全て日本航空に押さえられました。その時ホテルにいた従業員は全員残業、全管理職に非常招集がかかり、今回の件専用の受付が設けられることとなりました。その時の私は、いやフロントスタッフ全員は、墜落事故だとはまだ知らされず、事態の詳細も不明でした。というか、その時点で詳細を知っている者など、ホテル内には誰一人居なかったと思います。時間が経過するにつれ、日本航空社員・空港職員・報道関係、そんな方々が怒涛のようにフロント押し寄せましたが、当日の宿泊客を最優先にせよ、事故(その時点でまだ事故とは断定されていませんでしたが)関係の受付・対応は専用の部門に流せ、との上司の指示に従い、私は努めて冷静に勤務に没頭したと思います。こうした場合、一社員である私には、広く見渡して対応するより、まずは目前の業務に集中することが一番だと思ったからです。それでも時折、フロントに駆け寄ってはヒステリックに騒ぐ人もいたり、慌てふためいて駆け回る空港関係者、まくし立てる報道関係者、そしてタオルで顔を抑えながら足早に誘導される(まだ遺族となる前の)被災者の家族など、そんな渦の中で踏ん張っていました。下の新聞写真は、その時のホテルロビーで撮られたもので、私はそのロビー横のフロント内に居ました。

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幸い、今回の事故関係の窓口業務が機能し始めたことが救いになりましたが、それでもフロントに寄ってくる人波が途切れることは、その夜に限っては無かったです。深夜の3時を過ぎたあたりから、さすがに体力的にキツクなり、交代で休憩を取ることにしましたが、その時間でもまだロビーは夕刻のような人の出入りでした。日が昇る頃には、若いボーイ達も、レストランのスタッフも、オペレーターも、皆一様に疲れ切った顔と声をしていましたが、とにかく我々は日常業務に専念しようと声を掛け合い、目の前のチェックアウト業務だけに集中しました。そんな我々に、10時になってやっと交代要員が顔を見せてくれたことが、何と嬉しかったことか。手早く目前の仕事を片付けると引き継ぎ業務を済ませ、申し訳ないとは思いつつも、疲れた足を引きずって退社することに成功し、長い夜も終わりにすることができました。事故の詳細を知ったのは、その後家に帰ってテレビを見てのことでした。
日本航空123便が、520名の命と共に群馬県御巣鷹の尾根に沈んだ日から、今日で丸27年が経ったことになります。たぶん遺族の方々には、思い出したくなくても忘れられない日だと思います。そして私にも、これまで一番長かった夜として、今も記憶の片隅に残っています。当事者ではありませんが、その日その時、偶然近くに居合わせた者として、ご冥福を祈らせていただきます。

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