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写生の画 [物語]

先月のこと、車で市内を走っていた時、思いがけない画が飛び込んできました。思いがけない? いや昔見たことのある風景です。思いがけなかったのは、あの頃と変わらぬこと。地方の工業都市に生まれ、今も住んでいる身としては、こんなコンビナートの姿など、別段珍しいわけではありません。けれどそれは、時の流れと共に変わりゆくのが自然な街並みの中で、フッと拾った一枚の古びた画のように、たたずんでいました。周りは騒音だらけのはずなのに、私の耳からはいつの間にか掻き消え、静寂の中で私を、過去へと誘ってくれました。

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今の時代、写生大会というのは、あまり聞かなくなりましたが、私が小学生の頃は、毎年どこかで開かれていました。あれは確か、私が小学6年生の年、ちょうど今ぐらいの、梅雨の前の初夏を思わせる晴れた日だったと思います。午前中の授業時間を全て使って、小学校から川沿いを歩いて行き、各自が好きな画を写生するという、行事というか授業がありました。夏に出品する写生大会の画を描かせるため、というのは後で知ったことですが、教室で小難しい授業を受けているよりはずっと開放的で、何か遠足に行くのに近い楽しさがありそうで、ワイワイ言いながら皆が、絵の具箱を片手に勇んで飛び出しました。日差しが強い日で、私は白い帽子をかぶっていた記憶が、微かにあります。
川向こうのコンビナートを描き始めたところ、当時担任だった田中先生が、「お~、なかなか上手いじゃないか」と覗き込んできました。「でもなあ、もう少し移動して、この角度から描いた方がイイんじゃないか」とか、「遠くの物と近くの物は塗り方を変えて」とか「筆はこうして・・・」などと、他の生徒そっちのけで個人指導。別段それまで先生とは、親密だったわけでも気に入られていたわけでもなく、むしろ一対一で話したのは初めてじゃないかという私でしたから、ちょっと緊張しつつも、「ちぇっ、なんで俺ばっかり」「うるさいなあ」と思ってしまったのも無理ないこと。友人たちの同情の目を気にしながらも、元々画を書くのが苦手じゃない私は、お節介を感じながらも先生の声に後押しされ、没頭して描いていたと思います。その甲斐あってか、自分としてはなかなか満足のいく画に仕上がったと思って、揚々と給食を食べに学校に戻りました。
その後、その時の私の画が学校の代表として選ばれ、県の作品展で賞を頂くことになりました。2学期の始業式、全校生徒の前で呼び出され、校長先生に表彰状を読まれたことは、嬉しかったというより、恥ずかしい気持ちの方が大きかったように記憶しています。ただその時、担任の田中先生は、その場にいませんでした。
先生は病気で入院ということで、2学期最初から私のクラスは自習時間がほとんどとなりました。自習という事で、喜ばない小学生はまず居ません。たまに他の先生がやって来て授業をするのですが、僅かな時間を我慢すればまた自習になることが分かっていると、苦にもなりません。他のクラスメートからは羨ましがられました。しかし、そんな変な優越感も、1週間、2週間と続くと、やっぱり小学生といえど、いつまでも楽天的気分を続けられるわけでもなく、1カ月も過ぎると、他のクラスへ分かれて臨時編入させられ、私のクラスは分割されてしまいました。そこに至っては、さすがに担任の先生を恨みました。「先生が早く戻ってこないから、俺たちのクラスはバラバラにさせられた」と。そんな恨む気持ちも小学生では長続きせず、それが、「早く戻ってきて、元のクラスになりたい」と懇願する気持ちに変わったのは、きっと全うな事だったでしょう。
年が明け3学期になっても、先生は戻って来てくれませんでした。机と椅子をもって他のクラスで授業を受けていた私たちは、休み時間になると必ず、ガランと何も無くなった元の教室に集まってきました。不平不満を口に出す者はいても、今の状況の方が良いという者は、一人もいなかったと思います。特に申し合わせたわけでもなく、顔を見合わせるためにそこに集まって来るのは、実はお互いが6年1組であることを、確認し合っていたのだと思います。当人たちは特に意識したわけでもなかったですが、それが毎日の自然なことになっていました。
ちょうど卒業式の練習が始まる前でしたから、2月初めの頃でしょうか、先生が戻って来てくれることになりました。その知らせを聞いて私たちは、元の状態に戻れることを、当然喜びました。自分の机と椅子を持って元の教室に戻り、「この間に俺たちが、どんなに悔しい思いをしたか、恨みつらみを言ってやろう」と語り、先生が来るのを待っていました。けれど、結局は誰一人、そんなことを言う者はいなかったばかりか、喜ぶ気持ちも次第に霧散していくようでした。なぜなら、久しぶりに見る先生は、以前とは見違えるようにやせ細り、頬はこけ、顔は青白く、声も出なくなっていたからです。
後で知ったことですが、先生はガンで、闘病生活を余儀なくされ、それでも自分の担任したクラスの事が気になって、無理なのを承知で一時退院し、命を削って卒業式前に戻って来てくれたのでした。自分の事はまったく話さず、出来るだけ笑顔で、私たちの事を気にかける言葉を発する先生の前では、いつもの悪ガキも、お調子者も、そして私も、みんな優等生になり、卒業式を迎えることとなりました。最後のホームルームで、田中先生が私たちに何を語ったのか、思い出せません。卒業後の事ばかりに、目を向けていたからでしょうか。冷静に考えれば分かりそうなことなのに、分かりたくない、そちらへ目を向けたくない自衛本能みたいなものが、無意識のうちに働いていたのでしょうか。卒業式を済ませた小学生の私たちには、気持ちの余裕、いや余裕ではなく、もう少し周りが見れる視野が、まだ無かったのでしょうね。それが先生との最後の別れになることに、誰もが実は気付いていながら、誰一人口に出すことも無く、努めて明るく、前だけを向いて校門を出たと思います。
中学生活にもやっと慣れた頃、私のところにも訃報が届きました。中学生になって急に勉強が厳しくなったこと、部活動に熱を入れ出したこと、そんな新しい生活リズムの中にいる中学1年生の私たちに、それほど深い悲しみは無かったように記憶しています。いや、葬儀で涙を見せていた女の子もいましたから、全員がそうだったわけではないでしょう。ただ、皆で電車に乗って向かう途中、私たちの口々から過去を懐かしむような話は出ませんでした。現在と近い未来にしか目を向けられない、まだまだ未熟な人間だったからでしょうか。人が死ぬということ、それがどんな意味なのか、分かっていなかったからでしょうか。それが証拠に私は、先生との思い出といえば、真っ先にあの画のことが出てくるはずなのに、こんなに時間を経ないと甦らないのですから。
50代でこの世を去らなければならないとは、当時としても早すぎる死だったと思います。その無念さなどは、私などが察するには、おこがましいことでしょう。恩師と呼べるほど深い付き合いをしたわけでも、長い期間一緒に居たわけでもなく、たぶん多くの教え子の中で凡庸な一人に過ぎない私ですから。先生があの日、私に教えてくださって描いた画は、展示後に私の元に戻ってきたはずなのに、今は手元に有りません。先生、まったくどうしようもない生徒で、すみません。けれど、あれから随分と時が経っても、あの日のことがこうして私の脳裏に浮かびあがるのですから、きっと先生は、未熟な私の中に小さくても何かを、植え付けて行ってくれたのだと思います。
今、私の目の前には、あの日私と先生が見つめて描いた、同じ光景があります。いや、まったく同じというわけではないですね、時が経ちましたから。土が見えていた道はアスファルトの道路に変わり、近くに新しい建物も立ちました。そして、私も少し大人になりました。あの日、私の小さな背中越しに眺めていた暖かな眼を、親となった今の私は持っているのでしょうか。分かりません。でもね先生、今の私なら、もう少し上手く描けるかもしれないよ。だって前ばかりじゃなく、少しは振り返れる道程を残してきましたから。

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