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サッカー撮影49(偶然の産物 中編) [サッカー撮影]

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写真撮影とは、撮影者の目の前で現実に起こっている事を形にして残すことで、その形にして残したものが写真です。現実に起こっていない事を撮影することはできません。デジタルアートのように、写真をベースとしながらも、創作の部分が大きいものとは別物でしょうし、もちろん同じ芸術の分野の絵画や彫刻などの、製作者が一から作り上げるものとは違います。写真は、現実を写すという意味で、事実保存という記録としての側面もあり、その意味では100%フリーな意思表現の場という訳にはいきません。写真の芸術的側面は、あくまで現実の撮り方の部分であり、それをどのように二次元的に表現し、見る者に伝えるかです。この、記録と表現という両側面を兼ね備えたのが写真であると思いますし、それを前提で考えるべきでしょう。
ここで、季節は春ですから、桜の写真を例にしたいと思います。Aさんは、地元の桜並木が満開になったと聞いて、カメラを片手に撮りに行きました。そして、見事に咲いた桜の写真を撮ってきたとします。この行為自体に、偶然性は感じられません。Aさんの撮った写真は、偶然の産物とは思えません。ただ、「青空をバックに撮りたかったのに曇り空だった」とか、「花弁が舞い落ちる様を撮りたかったのに無風だった」とか、Aさんの思い描いたシーンを撮れなかったとすれば、その原因をAさん側に全て押し付けることは難しいでしょう。記録的には望むものが撮れたとしても、写真を自らの表現の場とする面で、撮影者の意図を反映した作品撮りができなかった要因に、人知の及ばない部分が有ることは、認めざるを得ないと思います。
私の家内の実家は、富士山の麓にあります。「ダイヤモンド富士」というのをご存知でしょうか。太陽と富士山頂がちょうど重なり、その光芒がダイヤモンドが輝くように見られることがあり、この現象をタイヤモンド富士といいます。これは一つの大気光学現象です。これを狙って、「3日間頑張ったけど、結局今年は雲がかかってしまい、思ったような画が撮れなかった」と嘆いていた話を聞きました。これなどは、撮影者自身が狙って努力したのに、結果が伴わなかった例ですが、その原因を撮影者自身に課すのは酷なことでしょう。ただ逆に、「通勤途上で偶然にもダイアモンド富士が見れそうだったので、たまたま持っていたカメラで撮れた」という話も聞いたこともあります。これなどは、撮影者自身が特に望んでいた訳ではないのですから、運が良かった、偶然撮れた、と言われても不自然ではないかもしれません。

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最初に、写真には記録と表現という両側面があると書きましたが、ここで題材にしているのは、撮れればいい、という記録的側面の話ではないので、以降は後者の場合を想定して話を進めたいと思います。先の桜の例でいえば、満開の桜並木が撮れればいい、というのではなく、撮影者自身が思い描いた桜のシーンを、写真として上手く表現できるかどうか、といった点です。その場合でも、天候や撮影場所や周りの環境など、撮影者自身ではどうしようもない要素に翻弄されることはあります。
列車や航空機、船舶を撮っている方もいらっしゃると思います。運航ダイヤや路線を調べ、そこに行けば撮れるでしょうが、そこに「夕日をバックに」とか「水煙を上げて」といった条件を付けると、途端に難しくなります。そこには、ある割合で人力ではどうしようもない部分が入り込んで来るからです。野山を歩いて、鳥を撮っていらっしゃる方もいます。鳥が撮れればイイ、というのであれば、難しくないかもしれません。けれど、「カワセミを」「猛禽類を」と限定し、しかも「ホバリングしているところを」「滑空しているところを」と更に望めば、やっぱり運や偶然性に左右されることは有ると思われます。では、そうした望んだ写真を撮れたとして、それは運が良かった、偶然だった、と言い切れるでしょうか。目の前の現実を撮るのですから、スタジオ内でモデルにポーズの注文を出しながら撮る、といった一部の例を除いて、そのような偶然性に左右される要素を、全て排除することはできないと思います。しかし逆に、運や偶然性が撮られた作品の全てを決める、とも思えません。

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写真の評価という点で、詳しく述べられるほどの力量は、私にはありません。ただ私は、撮影者自身が実際に見て、心に感じたものを表した写真、見る者に何かしらの感情なり感想なり、そんな心の揺らぎを与えるような写真こそが作品なのだと思います。それには、その為の機材が必要でしょう、撮影技術や知識が必要でしょう、センスや感受性も必要でしょう。そして何より、意欲が必須でしょう。それらが一つでも欠ければ、目の前を絶え間なく無限に通り過ぎていく光景をただ見過ごしているだけで、意図を持って切り撮ることなどできないはずです。運や偶然性の存在は否定できませんが、それよりも前述の機材・知識・技術・意図・感性・意欲の占める割合の方が、作品を撮る要因の過半数を超えるべき(はず)だと思いますし、その部分が大きいからこそ、偶然や運の部分は小さくできるのです。小さくできれば、それに翻弄されることもないのです。
フォトコンテストの入賞者は、運の良い人の集まりではないのです。

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